塩分

入院している父に一日付き添った。身の回りの世話はすべて看護師さんや介護のスタッフがプロとして当たってくれるので、話し相手になるくらいしかやることはない。何か別にしてほしいことはないかと聞いたら、父が言った。

「何かごはんにかける味の濃いものを買ってきてくれ。ウニとか塩辛とか」

幼いころからいろいろ苦労はしてきたが、金の苦労だけはしたことのない父は、食べ物に贅沢で、痛みや不便よりも入院食の味の乏しさに辟易していた。退院目標日が医師によって設定されると、入院食をもう食べなくて済むという理由で大喜びした。しかしXデーまであと2週間。それまでの拷問のような食事を乗り切るために、味の濃いごはんのお供が必要だと言い出したのである。

ところが、父の病室には小さくて性能の悪い冷蔵庫しかなく、腐りやすい食品の保存ができない。スーパーに行った私は、まずウニをあきらめた。塩辛の大半はチルドコーナーにあり、これもすぐに腐るのが目に見えていた。最後に見つけたのは常温の瓶詰状態で販売されている「桃屋の塩辛」だった。昔からCMを通じて商品の存在は知っているし、母が買ってきたのを食べたことがあるのかもしれないが、私が自分でお金を出して買うのは初めてだ。

病室に戻り、父に塩辛を渡したが、私は他に用事があったのでいったん病院を出た。戻ってくると夕食の時間になっていた。塩辛はどうなったかと尋ねると、父は不機嫌な顔になった。

「こんなしょっぱいもの食えない」

ずいぶんとわがままな人だと思った。病院食の味の薄さに不満を言い、味の濃いものには「食えない」。少しだけごはんに載せてよくかき混ぜて食べればいいではないか、とは言わずに、ああそうですか、じゃあぼくが持って帰りますとだけ言った。

塩辛は好きなほうなので、帰宅後にあつあつのごはんにかけた。一口食べて思った。

「こんなしょっぱいもの食えない」

大学に入り一人暮らしを始めたころ、塩まみれのワカメを水で洗わずに食べたことがあるが、それに匹敵する塩辛さだった。外国の海でおぼれかけたとき海水をたくさん飲んだが、それとも甲乙つけがたい。とにかくここ数年で食べたもののなかで、ダントツのしょっぱさだった。

うちでは塩辛をよく買うが、どれもチルド状態でビニール容器にパックされている状態の商品だ。函館あたりのメーカーの製品で、桃屋のような全国大手ではない。長くても1週間以内で食べきってしまう。こうした塩辛は、ごはんにかけて食べるものなので多少のしょっぱさはあるが、塩辛いというほどではない。

しかし考えてみれば、これは「塩辛」だ。名は体を表すものであるとすれば、桃屋のほうが本来の塩辛に近い。だいたい、イカの肉を内臓、塩とともに漬けこんで発酵させた塩辛は、日にちがたてばどんどん発酵が進み、やがて食べられない状態まで腐敗してしまうだろう。いまは冷蔵したままで輸送するシステムが整ったから、名ばかり塩辛が増え、私はそれに慣れてしまったが、海から離れた場所に住む人が海産物を食べるには、あるいは水揚げからしばらく期間を置いて海産物を食べるには、干すか、燻製にするか、塩漬けにするかしか方法がなかったのだろう。

後日、母にこの件を話すと、「お茶漬けにすればいい」と言われた。幼いころの記憶に従って、冷飯に残りの桃屋の塩辛を全部のせ、お湯を注ぎ、かき混ぜてからいったんお湯だけを捨て、再び新しいお湯を加えた。塩分はかなり薄まり、半分熱が通った状態となる塩辛の歯ごたえも心地よい。

とはいえ、この塩辛にするためにもう一度桃屋の塩辛を買うかといえば、そんな気にはならない。もっと薄味の、いまどきの塩辛で十分だ。誰がこの商品を購入してロングセラーを支えているのか知らないが、塩辛といえばこれしかないと信じ込んでいる高齢者がたくさんいるとすれば、三木のり平の罪は重い。

 

氷菓

クルマを1時間ほど走らせて、人口数万人の街へ。用事を終わらせ、昼食をとるためホテル3階にある和食の店に向かった。カツ丼にしようか、天丼にしようか。しばらく前に来たことがあるのだが、値段の割においしく、ボリュームもあり、落ち着いた雰囲気も気に入っていた。ところが入口にはぶっきらぼうな張り紙。「通常営業は終了いたしました。ランチは1階の××をご利用ください」。

前回来たとき、それほど客は多くなかった。この日もホテル裏側に車を停めてから3階に行くまで、館内で見かけたのはカウンター係の若い女性一人だけ。ランチタイムのレストランを1階に集約した経営陣の判断は適切だったと、私も思う。

道内地方都市のホテルはどこも経営が苦しい。一昨年、昨年は中国・台湾の観光客が「当たり年」だったが、インバウンド需要は波が大きく、今年もやってくるかどうかはわからない。もっと規模が大きな私の街でも、ホテル経営が苦しいことを象徴するような話があった。

私の父が入院している病院に、父の友人が見舞いに来てくれた。手土産はホテルのアイスクリーム。白いパッケージと黒いパッケージの2種類。どちらかが「プレミアム」の位置付けだった。

ポイントは「ホテル」の3文字だ。いまでは贅沢な材料を使ったアイスが当たり前で、コンビニでもそれほど高くない値段で売っているが、私が子どものころ、市販のアイスはなんのコクも深みもない単純な味で、それより二つ三つも上のランクに「ホテルのアイスクリーム」だけが鎮座していた。ホテルというのは、中心街で昭和30年ごろから営業し、天皇皇后両陛下がお泊りになったこともある老舗のホテルのことである(東京の人にはわからないかもしれないが、田舎の高齢者にとり、皇室御用達の実績には80年代のクルマでいう「ツインカムターボ」くらいの威力がある)。いまや複数のホテルがこの街にあり、老舗のホテルも建て替えやリブランドを経ているが、私を含め多くの市民はここが格式がいちばん上の宿泊施設だと考えている。

そのホテルのレストランで食すことができ、売店でおみやげとして買うこともできるアイスクリームは、子どもの目から見れば唯一の「地元産ぜいたく品」だった。単価は市販のバニラアイスの4~5倍はしたのではないか。私もしばしば、父が家へのおみやげとして買ってくれたのを食べたことがある。私はそんなに冷たいデザートが好きなわけではないのだが、ホテルのアイスクリームはうまかった。その印象があまりにも強かったので、大きくなった私の子どもが帰省したさいも、しつこく「ホテルのアイス食べるか?」と尋ねずにはいられなかった。

ところが、である。父の病室でプラスチックのスプーンを使い、アイスを一口だけ口に運んで愕然とした。懐かしい味。でもこれは、私が子どものころに食べた「近所の駄菓子屋で売っていた安物のバニラアイスの味」である。ホテルのアイスは一口食べただけで、良質な卵黄をたっぷり使っているのが子どもの舌でもわかったのだが、これは安っぽい粉みたいな味しかしない。白、黒のどちらかが廉価版、どちらかがプレミアムなのかとも思ったが、どちらも同じ安物の味だった。残しては父の友人に失礼なので完食はしたが、病室内の冷蔵庫に入れた残りのアイスクリームは食べる気がしなかった。父も母もいらないといったので、買ってきてくれた人に申し訳ないと思いながら、翌日にはほとんど捨てた。

あまりの落差の大きさに、私は何かの間違いではないかと思い、数日後にそのホテルの売店に行ってみた。アイスケースの中を覗いてみたが、やはり白と黒の2種類しかなく、昔ながらのアイスは「スーパープレミアム」と名付けられて販売継続中との期待は完全に外れた。

がっかりして売店を出て、ホテルのロビーを通って外に出ようとしたら、目の前に総支配人が立っていた。「あんなの食べさせられたら古くからのファンはがっかりしますよ。もうアイスを売るのはやめたほうがいい」と言おうと思ったが、やめた。

なぜアイスがまずくなったのか、だいたいの予想はついている。

このホテルでは十年ほど前からオーナーと運営業者が何度か交代している。もともとは市内に大工場を持つ有名メーカーが、他の街から来た大切なお客様をもてなす格式の高いホテルがないのは、街の発展を妨げるとして経営に乗り出したホテルだった。以前はメーカーの子会社が直接運営していた。メーカー本体が儲かっていたから、ホテルに対する厳しい要求もなかった。

しかしバブル崩壊後にメーカーは多角的経営を見直して本業に集中。ホテルはファンドに売却された。ファンドはホテルの経営術を知らないから、東京の専門業者に運営を任せた。とはいえ、東京から来るのは総支配人など幹部1~2人だけ。地元採用の従業員、地元の業者などを使い、ファンドが投下した金額に対して一定の収益を上げることだけが、運営業者の使命となった。

目標を達成するにはどうすればいいか。売り上げを伸ばすか、利益率を高めるか。東京はともかく、地方では不況が続いているので、それは難しい。簡単なのはコストを切り詰めることだ。食材の質を下げる、従業員の賃金を下げる、必要な建物の修繕を先延ばしする…。

2年ほど前、両親と一緒にこのホテルの和食レストランで、ちょっと値段の張る料理を頼んだことがある。あまりのまずさに父は驚き、ほとんど箸をつけなかった。リブランド前を含め、約50年このホテルのレストランを利用している父は、こんなものを(結構な値段で)食べさせられる時代が来たことが信じられなかったようだ。

なぜ私が目の前に立つ総支配人に対して黙っていたかといえば、年度末で離任することが決まっているからだ。約1年前に有名企業がこのホテルを入手し、4月には新しい支配人が着任する。現総支配人はすでに商品の質を高められる立場になく、アイスクリームについての不満を伝えても悪口にしかならない。

もっとも、このホテルはまだマシなほうで、後発のライバルホテルは、同様にファンドに転売された挙句、売り上げのうちオーナーが2割、運営業者が2割を自動的に持っていくので、残り6割ですべてを賄わなければならず、現場は頭を抱えていると出入りの業者に聞いたことがある。

さて、新体制で老舗ホテルのサービス品質は新年度にどう変化するのか。「改善を求めたい」と言うのは簡単だが、そのためには単価を高めなければならない。宿泊客はともかく、結婚式、宴会やレストランを利用する地元客にそれだけの購買力があるとは思えない。新しい総支配人に会う機会がもしあれば、「誰にも気が付かれないようにこっそりと、アイスは全部投棄して、二度と売らないほうがいいですよ」とアドバイスしたい。

狄威

そんなに詳しくないことをつらつらと書く。

最近の香港アクション映画のスターといえば、甄子丹(ドニー・イェン)らしい。スターウォーズ最新作の予告編にそっくりな人が出ていると思ったら本人だった。最初にすごい人がいると驚いたのは、李連杰と対決した黄飛鴻パート2。いまウィキペディアの中国語版で確認したら、この2人は北京の体育学校時代の同級生だとか。私の「すごい同級生ペアランキング」でフランキー堺&小沢昭一を抜いて1位になった(3位はバーブラ・ストライサンドとアメリカ人チェス世界王者のボビー・フィッシャー)。

しかし、私にとっての香港アクション映画スターといえば、甄子丹でも李連杰でもない。ブルース・リーの映画は真剣に見たことがない。成龍(ジャッキー・チェン)は好きだが、ジャッキーよりすごいのがいる。狄威(ディック・ウェイ)、プロジェクトAで海賊の親玉を演じた人だ。もちろん、私にとっての海賊といえば、狄威しかいない。

プロジェクトAは、成龍とユンピョウとサモ・ハン・キンポーが共演した豪華キャスト映画だった。そんなに大量の映画を見たわけではないけれど、これ以上にスターを揃えた映画は、他に「(藤)純子引退記念映画 関東緋桜一家」しか知らない。

その三大スターとプロジェクトAのラストで堂々と渡り合うのが狄威だ。3人が束になってかかって、倒せるか倒せないか微妙なところなのだから、香港映画史上に残る強さであろう。三大スターのギャラの合計はもちろん狄威を大きく上回っていたはずで、ギャラ比を考慮しても狄威の強さは際立っていたと確信する。

私が最初にレーザーディスクでプロジェクトAを観たとき、狄威すげぇと思ったのは、映画の本編が終わってジャッキーファンおなじみのNG集が始まったときだった。アクロバットがうまくいかず転んで、落ちて、ぶつけて苦悶の表情を浮かべるジャッキー、セリフを間違えて笑うジャッキー。映画の中以上に表情が豊かなジャッキーや他のキャストと対照的に、狄威はNG集のなかで他のキャストがトチっても怖い顔のままだった。当時たしか中学生だった私は、狄威だけは本物の海賊か、そうでなければヤバい人で、一人だけ撮影現場のなかで浮いているために笑わないのではないかと本気で思っていた。

さて、狄威は台湾南部、屏東の出身で、検索してみたところ、2015年3月の新聞記事にヒットした。いまは芸能界とは距離を起き、故郷に戻っているらしい。カンフー道場を開いて後進を指導したいとこの記事の中では語っているが、ぜひ最低でも3人は育ててジャッキー、サモハン、ユンピョウを一人ずつ潰してほしいものである。

欠航

週末、東京に行くことになっていたのだが、キャンセルした。今朝は東京のどこかで朝食を取っていたはずなのに、自宅の台所でレトルトのペペロンチーノを作って食べた。

昨夜、空港のカウンターで手続きを済ませたときには「出発時刻は予定よりも5分遅れ」と言われた。早めに検査を済ませて待合室に入ったら、「メインタイヤにパンクが発見されました」とのアナウンスがあり、しばらくして「交換に1時間半かかります」との追加情報。まあ、羽田からの終電に間に合えばいいかと、持っていたパソコンを開いて仕事をした。

ところがその1時間半が経ったころに再度のアナウンス。「もう一つのタイヤでもパンクが発見されました。当空港にはスペアのタイヤが一つしかございませんので、欠航とさせていただきます」。旅慣れている人はすぐに保安検査のゲートをさっき通ったのとは逆方向に走った。翌日(つまり今朝)の便の空席をいち早くゲットして、東京に向かった人も多かったのではないか。私はパソコンソフトを終了してケースに入れ、さらに旅行かばんにしまうのに手間取り、大きく出遅れた。

それからが長かった。欠航のアナウンスは9時すこし前。航空会社は4つか5つのカウンターに係員を配置して、払い戻しや便の振り替え、預けられた荷物の返還などの対応に当たったが、それでも列はなかなか進まず、私に番が回ってきたのは10時50分だった。

その間に多くの人がスマホやタブレットを使っていた。私の場合、家族がネットで予約手続きを行ったので、変更に必要なIDなどがわからず、また余計なお金がかかりそうだったので、列に並ぶしかなかったが、搭乗券のQRコードを読み取るなどの方法で、もっとスマートに払い戻しや振り替えの手続きを行うしくみを整えれば、みんながラクになるのにとの不満は感じた。

私から見えるところに、欠航に対して怒っている人はいなかった。少し前、新千歳空港で大雪による遅れに中国人観光客が怒りを爆発させる映像(あれは空港会社への不満というよりも、特定の航空会社の利用者が、他の航空会社の便が優先されてどんどん離陸していくことに怒ったと聞いた)が流れていたが、もちろんあのような事態にはならなかった。私も、機材の故障はあることで、むしろリスクを放置したまま離陸するよりは安心できると考えて、自分を納得させた。

しかし、この航空会社の対応には落ち度がある。タイヤ1個の破損を把握した段階で、他のタイヤに問題がないかまず確かめるべきだった。欠航の確定が1時間半前倒しされれば、振り替え便の予約もスムーズにできたかもしれない。時間的にはぎりぎりだが、陸路新千歳に向かい、昨日のうちに東京に戻ることができた人もいたのでないか。

気の毒なのは、行列で私の前にいた若い女性だ。受験なのか就職面接なのか知らないが、行列の近くにいた空港のスタッフに「絶対に今日のうちに東京に行かないとだめなんです。明日の第一便では間に合いません」と泣きそうな声で話していた。昔は国会議員などVIPからの急な要請に応えるため、満席便でも予備の席を確保してあると聞いたことがあるのだが、これは私が初めて耳にした30年前にすでに都市伝説だったので、女性が無事東京に行き、重要な面接だか会議だかに間に合ったのかどうかわからない。

200人以上が乗る航空便なのだから、他にもこうした事情をかかえた乗客はいたはずだ。それなのに、私も含めて1人も怒りの感情を表に出す人がいない。これはこれで異常なのではないか。何人か外国人の乗客もいたが、「日本人サイコー」というよりも「日本人不気味」と感じたと思う。

私はようやく順番の回ってきたカウンターで、非常に対応が丁寧な女性の係員に、乗れるのは一番早くても翌日午後の便だと告げられ、東京行きそのものをキャンセルした。行き・帰りの便の代金全額が払い戻された。これで手続きは終わりですねと確認して帰ろうとしたその瞬間、左の方のカウンターで高齢の男性が発した「だから責任者呼んでこいよ」との怒号が聞こえた。

「いい年して、若い女性スタッフに大きな声出すなんてみっともないね」と後ろ指をさされるのを覚悟で、おそらくは200人超の乗客の心の中で少しずつ膨らんでいた不満を合計して代弁してくれたおじいさんに、私は内心、感謝している。

火葬

昨日の今頃、犬を連れて散歩に行った。まだ太陽は出ていない。この季節としてはかなり冷え込んでいたが、私が厚着して「行くか」と聞いたら、犬はなんとか立ち上がり、比較的しっかりした足取りで外に踏み出した。数十メートル行った場所で、あまり状態のよくない便をした。それからさらに、この12年間、頻繁に訪れていた公園に向かって進もうとしたが、とても帰ってこれそうな足取りではなかったので、私が家に向けて軽く引っ張った。案の定、家の前に達するころにはふらついていた。

犬の胸がある日膨らみだし、獣医師に腫瘍だと言われたのは今年の初め。その前から足腰が老化で弱くなっており、十年以上住んだアパートの2階では危なっかしいということで、私たち夫婦が中古住宅を購入したばかりのタイミングだった。手術せずに様子を見るつもりだったのだが、家のリフォームを終えて3月初めに入居した直後、クルマに乗り込む瞬間に転んで腫瘍が破れて出血し、慌てて手術することになった。犬のためにローンも含めて1000万円以上負担して家を買ったのに、わずか数日で無駄になる事態も想定したが、手術は成功し、犬は手術前とほぼ同じ状態で戻ってきた。

しかし、獣医師には「すべてを取れたわけではない。あと半年で再発するかもしれないし、もって1年ではないか」も言われた。腫瘍ができる前から心臓が弱り呼吸が荒くなっており、数年前から股関節にも不安を抱えていたので、それほど長くはないと覚悟はしていた。大型犬の中では小さめというサイズを考えれば、一昔前なら10〜12年くらいが寿命で、犬が長寿化したいまでも、この秋で14歳(もともとは野良犬だったのを保護したので年齢は推定)を迎えたうちの犬は十分に高齢だった。

見た目にも腫瘍が以前と同じ場所で再び膨らみだしたのがわかったのはこの秋だったろうか。食欲も落ちてきた。それでも「散歩欲」だけは旺盛で、早朝にはいつも決まったコースを1キロ以上歩いた(いま改めてグーグルマップで距離を測定したら1.7キロあった)。3週間前に目立って体が弱り、何も食べなくなり、水も飲んだあとで吐くようになった。獣医師に相談すると、「いままで食べさせたかったものも含めて、なんでもあげてください」と言われた。ケンタッキーを与えると、2〜3回食べたが、すぐに興味を示さなくなった。ペット商品の専門店や大きめのドラッグストアに行くと、ペットの高齢化を象徴するかのように、いろいろな高齢犬向けの食品が並んでいた。その一部は2〜3回食べてくれたが、いずれもすぐに食べなくなった。まったく口をつけないものもあった。

2〜3日おきに動物病院に連れて行き、注射してもらうと、そのたびに元気と食欲をやや回復したものの、しだいにその効き目も薄れてきた。1週間前、最後に受診すると「年は越せないでしょう」と言われた。声を出したり、なにかをねだったりする様子はなかったが辛そうではあったので、ほっとした部分もあった。

それでも最後まで散歩はした。長距離はさすがに無理になったが、私が住んでいるブロックをぐるりと回る400メートルは歩き続けた。これは犬にとり気の毒なことだが、犬は一日の大半を家の中で退屈しながらすごし、惰眠をむさぼる以外の選択肢を与えられていなかった。例外が朝晩の散歩と週末の外出であり、命の残りが少なくなったのに散歩するのではなく、だからこそ懸命に散歩しているようにも思えた。

おとといは妻が休みで、散歩に連れて行った。犬は公園まで行き、さらに積もる雪を踏みしめて公園の奥の方まで行こうとした。それは到底無理な話で、また妻は動けなくなった犬を抱きかかえることもできないので、なだめながら戻ってきたという。

そして昨日の未明、わずかではあるが散歩をした。そのまま居間で腹ばいになり眠り始めた。私も寝た。仕事が前日までで大きな山を超えたこともあり、また何か予感があったのか、私は会社を休むことにした。妻が犬を撫でながら「もう反応がない」と言い始めた。私は「いや、そんなことはないよ。辛そうでもでも散歩に行くかと聞いたら立ち上がるはず」と言い、コートや帽子、手袋を身につけたうえで、犬の背中にリードをつないだが、まったく反応がなかった。散歩に行こうとしないのは、飼ってからの13年半でこれが初めてだった。

数時間前に散歩したばかりであり、獣医師には「歩けなくなったら早いですよ」と言われていたものの、さすがに散歩したその日に死ぬことはないだろうと思い、土日を含めたこの3日間のうちに逝ってくれるのがタイミングとしては理想的かなと思いながら、犬の耳の後ろや額を撫でていた。呼吸のたびにあごが少し動くなど、ちょっと息遣いが荒いようにも感じた。獣医師には、臨終前に激しく痙攣する可能性があり、そのために座薬も渡されていたのだが、私は妻に「もう十分がんばったので、座薬は使わない。このまま送ってあげよう」と言った。幸い、痙攣の兆候はなかった。

気が付くと、息をしていなかった。鼓動のたびに揺れるはずの耳先がまったく動いていなかった。隣室の妻を呼んだ。鼻先に私の指を持って行ったが、やはり息をしていなかった。時計を見たら11時30分だった。二人で少し泣いて、撫でながらありがとうと声をかけた。すぐに2階に行き、犬の火葬業者に電話をし、夕方4時に来るよう頼んだ。週末ごとに犬を預けていた実家にも報告した。電話の向こうで年老いた私の両親が泣いていた。

寝ているような様子の犬のシモの処理をした。火葬業者に指示された通り、氷水を入れた袋を顔と腹の左右に当てて冷やした。妻はどうしても外せない用事があり、外出した。窓を開けて、犬が横たわっている居間に冷たい外気を取り込んだ。

妻が戻ってきてしばらくすると、ハイエースに乗った業者が来た。人間の葬儀業者としても立派に働けそうな雰囲気で、いろいろと説明してくれた。手足はすでに硬直していたが、私が犬を抱きかかえると、まだ胴体は柔らかく、ぬくもりもあった。ハイエース内の炉室から引き出された床の上に置くと、まさに寝ているようだった。また妻と、ありがとうと声をかけて、手袋を外して最後に頭を撫でた。業者の人が床を炉の中に押し戻し、扉を閉めた。

私たち夫婦は家の中で待ち、業者の人は運転席の中で待機しながら、しばしば炉の小窓から中を確認して火加減を調整していた。途中、私はコンビニにお茶とコーヒー、紅茶を買いに行き、業者の人に勧めた。業者の人はお茶を選んだ。焼き終わるのを待ちながら、私も「死ぬときは最後まで歩き、できるだけ自分でトイレに行き、眠るように死にたい」などと妻に話した。私に物心が付く前に祖父は死に、祖母の臨終のさいには遠いところにいたために葬儀に出なかった。両親は健在であり、これまで近い家族の死に直面した経験がないため、犬の死を通して初めて、自分の死の理想的な姿についても深く考えた。

約3時間して業者の人が呼びに来た。外気温はおそらくマイナス10度以下だったために、冷めるのは早かった。業者の人が、人間の火葬場と同じように、「ここが背骨」「ここが肩甲骨」などと部位について説明してくれた。私の印象のなかでは、我が家の犬は大柄だったのだが、焼けてしまうとニワトリ2匹分くらいのボリュームで、妻は「ほとんど毛だったのよ」と言った。大きめの骨壷に私と妻でひとつひとつ骨を箸でつまんで入れ、最後にのどぼとけの骨を入れた。一部の骨は犬の生まれ故郷で埋葬するために、小さな茶葉用の缶に入れた。業者の人はハケとちりとりのようなもので丁寧に小さな骨も集めて、骨壷に入れてくれた。尖った爪もあった。

火葬には消費税も含めて4万円弱がかかった。当日の対応で、また態度が非常に良かったので、高いという気はしなかった。この人が途中で説明した「お寺での供養」「額入り写真」に私達がまったく興味を持たなかったのが、逆に申し訳なかった。

犬の骨壷は、金ピカの立派な袋に入って、いまテレビの横においてある。春になって雪が溶けたら庭先に深い穴を掘り、埋葬するつもりでいる。そのために庭付きの家を買ったのだと考えれば、無駄な買い物ではない。

零零

下戸である。仕事の関係で、取引先などと食事をする機会は多く、そのたびにウーロン茶を飲み続ける私に、同じテーブルになった人たちが「今日は車ですか?」などと尋ねるので、「すいません体質的にお酒はダメなんですよ。ほら、献血前にアルコールでこのへんを(ひじの内側を指さす)消毒するじゃないですか。そしたら皮膚が真っ赤になるので、看護師さんに『あ、お酒飲めない人ですね』と言われるくらいの下戸です」と、そのたびに説明する。もう何十回も同じ説明をくりかえしているので、「すいません」から「下戸です」までを高速でまくしたてるようになっている。ただし、ここで白状するなら、献血は一度しかしたことがないので、看護師から言われたのも一度しかない。

仕事の関係でも、そうでないところでも、酒の場はそんなに嫌いではない。そう思えるのようになったのは、自分の口には酒を入れないようにしようと決めてから。今は嫌いでもこうして飲み続けていれば、いつかは多少は飲めるようになり、おいしく感じるようにもなるはずと考えて無理して飲み続けていた学生時代には、酒の味だけでなく、飲み会の雰囲気も嫌いだった。

いまは誰も私に強制しないし、私もへんに「空気」を読んで慣れない酒に口をつけることもないので、アルコールの助けで陽気になっている人を見て、私も愉快に感じることはあっても、不機嫌になったりすることはない。ただ、困るのはお茶に飽きてしまうということだ。居酒屋やスナックで出されるウーロン茶はカフェインが濃いのか、グラスに2杯飲んだだけで夜眠れなくなってしまうという問題もある。私は寝つきが非常に良いので、自分の家で急須を使って煎れたウーロン茶ならそんなことにはならない。

かといってコーラなど甘いドリンク類はカロリーが心配で、また飲んだ翌日か翌々日にこめかみに鋭い痛みが走ることがある。現状ですでに、周囲の人々が「ビールおかわり」「ハイボール」「焼酎お湯割り」などと店員に頼んでいるのに私は何もいうことがなく、ただただ手持無沙汰なために目の前のから揚げに手を付けてしまう。飲み物を注文できないと、この問題が一段と深刻になる。

そこで、ノンアルコールのビールを飲んでみることにした。

以前、ある飲み会で一緒になった社会保険労務士の人が、ビンのノンアルコールビールを手酌でちびちびと飲んでいた。私が「車ですか」と尋ねると、「いや、酒飲めないんです」と笑った。そのときは、わざわざ酒を飲めない人が、酒に似せて作った飲み物を注文する必要があるのか疑問に思ったが、その社労士は私の一歩先にいたのだといまは思う。

仕事の宴席や知人友人との飲み会でノンアルコールビールを飲んで注目され、その場で「やっぱりまずい」と残すのも格好悪いので、先日、仕事の帰りに近所のドラッグストアに寄り、通常なら味なし炭酸水や「おーいお茶」を買うところを、同じ冷蔵陳列棚の別のエリアに生き、「アサヒ・スーパードライ」のノンアルコール版を1缶買った。値段は100円強。酒類は同じ容量の飲み物より5割から数倍高価だという印象があり、強烈なお得感を感じたあとで、アルコールにかかる税負担がないので、安いのも当然かと気が付いた。

帰宅して夕食の横に缶を置いた。缶の上には「本物と同じ味を追求」といった文句が書いてあった。コップに注いで一口つけてみる。おそらく過去20年、一度も飲んだことがないが忘れていないビールの味。決してうまくはない。ただ、それはビール風味とともに、過去の楽しくはなかった飲み会の雰囲気を思い出してしまったせいかもしれず、純粋にこの飲み物がおいしいのかどうか、判断するのは難しかった。

ただ、気分を変えるための飲料としてはこれもアリなのではと思った。私はよくソフトドリンクをコンビニで買ってきて自宅やクルマを運転している途中で飲むけれど、砂糖入りは太るのであまり飲みたくないし、かといってブラックコーヒー、味のない炭酸水には飽きてきた。ノンアルコールのビールはビールからの派生系というよりも「発酵麦飲料風」、つまり麦茶の派生系として飲めるような気がしたのだ。

その数日後、ノンカロリー、ノンアルコールのチューハイ風飲料を買った。少しだけ甘い。ノンカロリーである以上、人工甘味料が入っているはずなのだが、そんなに甘くないので人工甘味料の量も少ないらしく、ダイエットコーラような不自然さがなく好感が持てる。これはコーラ代わりにいいなと思った。

ノンアルコールのビールも、ノンアルコールのチューハイ風飲料も、缶の表面には「Alc. 0.00%」と記してある。これまでノンアルコールとは、すでに成分の中に含まれているアルコールを特殊なプロセスで「飛ばす」ので、含有率が測定限界の0.005%未満以下まで低下したものだという印象を持っていた。

考えてみればそんなに効率の悪い方法で生産するわけがなく、最初からアルコールは入れておらず、ノンアルコールのビールは他の方法でビールそっくりの味を再現しているはずだ。チューハイ風については、飲んでみてわかったが、甘さを抑えた炭酸飲料でしかない。ではなぜ「0.00%」表記なのか。酒税法のルールに沿っているのでないとすれば、消費者を「0.005%くらいは含んでいるんじゃないか」と期待させるのが狙いなのではないか。

私はそういう期待をさせてくれることも商品価値の一部だと思うが、消費者庁あたりが「ノンアルコール飲料の0.00%の大半は、調査してみると0%だった」と発表したら、購入者に衝撃が走るかもしれない。

東京

高校2年のとき、家出したことがある。別に両親や家庭に対して不満があったわけではないのだが、高校生活がどうにもこうにも行き詰まり、前日に家の金庫を開けて数万円を拝借。父が海外旅行に使っていた大きなスーツケースに衣類、本、旅慣れていないものだからパタパタ式のデジタル目覚まし時計まで詰めて、朝5時に私の部屋の窓を開けて静かに外に出た。3㌔離れたところにある駅で青春18きっぷを買い、鈍行列車を乗り継いで東京まで行った。

その少し前に読んだ井上ひさしの小説「吉里吉里人」に、主人公が住み込みで働く場面があった。私は漠然と、何のツテも資格もない若者を東京の食堂が住み込みで雇ってくれるのだと信じこんだ。もちろん、現実の東京はそんなに甘いところではなかった。私は数日後に、やはり鈍行列車で北海道まで戻ってきた。

あの時、私が必死になって東京の下町で働き口を探し、中華料理屋あたりで住み込みで働き始めていたら、もしくは港湾施設にでも入り込んでいたら、そういう世界で生きている人には悪いけれど、一生浮かび上がることはできなかったと思う。「苦役列車」から、小説家になるという要素を差し引いた人生だったかもしれない。

非行とは無縁の私の失踪に両親はずいぶん心配しただろうが、帰った私に父は、「次、こういうことをするなら前もって知らせるんだぞ」と、多少不機嫌な表情で言っただけだった。後日、母が私に教えてくれたのだが、父は心配して、学校に行き私の担任に相談した。担任は、なにか考えがあっての家出だろうし、頭から叱ってはひねくれた性格を一段とこじらせてしまうかもしれないから、あまり強く言わないほうがいいと父にアドバイスしたらしい。

私がどこかで自殺する気なのではないかと心配した父親に、担任はこう質問した。

「息子さんの部屋は、片付いていますか?」

「いえ、いつも通り散らかったままです」

母によれば、担任は「では大丈夫です」と太鼓判を押したという。自殺するなら、家を出る前に自分の部屋をきれいに片付けるはずだと、担任は確信していた。

しかし、部屋をちらかしたままで死ぬタイプの人間もいる。私がそうだ。

同窓会の案内状はその担任にも送られた。三十年ぶりに再会できたら、N先生にははっきりと言いたい。

「私はあの時、自殺しようなんて全然考えてなかったし、いまもその気はないですけれど、もしその気になったとしても、部屋や机の上を片付けようなんて全然思いませんよ」