零零

下戸である。仕事の関係で、取引先などと食事をする機会は多く、そのたびにウーロン茶を飲み続ける私に、同じテーブルになった人たちが「今日は車ですか?」などと尋ねるので、「すいません体質的にお酒はダメなんですよ。ほら、献血前にアルコールでこのへんを(ひじの内側を指さす)消毒するじゃないですか。そしたら皮膚が真っ赤になるので、看護師さんに『あ、お酒飲めない人ですね』と言われるくらいの下戸です」と、そのたびに説明する。もう何十回も同じ説明をくりかえしているので、「すいません」から「下戸です」までを高速でまくしたてるようになっている。ただし、ここで白状するなら、献血は一度しかしたことがないので、看護師から言われたのも一度しかない。

仕事の関係でも、そうでないところでも、酒の場はそんなに嫌いではない。そう思えるのようになったのは、自分の口には酒を入れないようにしようと決めてから。今は嫌いでもこうして飲み続けていれば、いつかは多少は飲めるようになり、おいしく感じるようにもなるはずと考えて無理して飲み続けていた学生時代には、酒の味だけでなく、飲み会の雰囲気も嫌いだった。

いまは誰も私に強制しないし、私もへんに「空気」を読んで慣れない酒に口をつけることもないので、アルコールの助けで陽気になっている人を見て、私も愉快に感じることはあっても、不機嫌になったりすることはない。ただ、困るのはお茶に飽きてしまうということだ。居酒屋やスナックで出されるウーロン茶はカフェインが濃いのか、グラスに2杯飲んだだけで夜眠れなくなってしまうという問題もある。私は寝つきが非常に良いので、自分の家で急須を使って煎れたウーロン茶ならそんなことにはならない。

かといってコーラなど甘いドリンク類はカロリーが心配で、また飲んだ翌日か翌々日にこめかみに鋭い痛みが走ることがある。現状ですでに、周囲の人々が「ビールおかわり」「ハイボール」「焼酎お湯割り」などと店員に頼んでいるのに私は何もいうことがなく、ただただ手持無沙汰なために目の前のから揚げに手を付けてしまう。飲み物を注文できないと、この問題が一段と深刻になる。

そこで、ノンアルコールのビールを飲んでみることにした。

以前、ある飲み会で一緒になった社会保険労務士の人が、ビンのノンアルコールビールを手酌でちびちびと飲んでいた。私が「車ですか」と尋ねると、「いや、酒飲めないんです」と笑った。そのときは、わざわざ酒を飲めない人が、酒に似せて作った飲み物を注文する必要があるのか疑問に思ったが、その社労士は私の一歩先にいたのだといまは思う。

仕事の宴席や知人友人との飲み会でノンアルコールビールを飲んで注目され、その場で「やっぱりまずい」と残すのも格好悪いので、先日、仕事の帰りに近所のドラッグストアに寄り、通常なら味なし炭酸水や「おーいお茶」を買うところを、同じ冷蔵陳列棚の別のエリアに生き、「アサヒ・スーパードライ」のノンアルコール版を1缶買った。値段は100円強。酒類は同じ容量の飲み物より5割から数倍高価だという印象があり、強烈なお得感を感じたあとで、アルコールにかかる税負担がないので、安いのも当然かと気が付いた。

帰宅して夕食の横に缶を置いた。缶の上には「本物と同じ味を追求」といった文句が書いてあった。コップに注いで一口つけてみる。おそらく過去20年、一度も飲んだことがないが忘れていないビールの味。決してうまくはない。ただ、それはビール風味とともに、過去の楽しくはなかった飲み会の雰囲気を思い出してしまったせいかもしれず、純粋にこの飲み物がおいしいのかどうか、判断するのは難しかった。

ただ、気分を変えるための飲料としてはこれもアリなのではと思った。私はよくソフトドリンクをコンビニで買ってきて自宅やクルマを運転している途中で飲むけれど、砂糖入りは太るのであまり飲みたくないし、かといってブラックコーヒー、味のない炭酸水には飽きてきた。ノンアルコールのビールはビールからの派生系というよりも「発酵麦飲料風」、つまり麦茶の派生系として飲めるような気がしたのだ。

その数日後、ノンカロリー、ノンアルコールのチューハイ風飲料を買った。少しだけ甘い。ノンカロリーである以上、人工甘味料が入っているはずなのだが、そんなに甘くないので人工甘味料の量も少ないらしく、ダイエットコーラような不自然さがなく好感が持てる。これはコーラ代わりにいいなと思った。

ノンアルコールのビールも、ノンアルコールのチューハイ風飲料も、缶の表面には「Alc. 0.00%」と記してある。これまでノンアルコールとは、すでに成分の中に含まれているアルコールを特殊なプロセスで「飛ばす」ので、含有率が測定限界の0.005%未満以下まで低下したものだという印象を持っていた。

考えてみればそんなに効率の悪い方法で生産するわけがなく、最初からアルコールは入れておらず、ノンアルコールのビールは他の方法でビールそっくりの味を再現しているはずだ。チューハイ風については、飲んでみてわかったが、甘さを抑えた炭酸飲料でしかない。ではなぜ「0.00%」表記なのか。酒税法のルールに沿っているのでないとすれば、消費者を「0.005%くらいは含んでいるんじゃないか」と期待させるのが狙いなのではないか。

私はそういう期待をさせてくれることも商品価値の一部だと思うが、消費者庁あたりが「ノンアルコール飲料の0.00%の大半は、調査してみると0%だった」と発表したら、購入者に衝撃が走るかもしれない。

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東京

高校2年のとき、家出したことがある。別に両親や家庭に対して不満があったわけではないのだが、高校生活がどうにもこうにも行き詰まり、前日に家の金庫を開けて数万円を拝借。父が海外旅行に使っていた大きなスーツケースに衣類、本、旅慣れていないものだからパタパタ式のデジタル目覚まし時計まで詰めて、朝5時に私の部屋の窓を開けて静かに外に出た。3㌔離れたところにある駅で青春18きっぷを買い、鈍行列車を乗り継いで東京まで行った。

その少し前に読んだ井上ひさしの小説「吉里吉里人」に、主人公が住み込みで働く場面があった。私は漠然と、何のツテも資格もない若者を東京の食堂が住み込みで雇ってくれるのだと信じこんだ。もちろん、現実の東京はそんなに甘いところではなかった。私は数日後に、やはり鈍行列車で北海道まで戻ってきた。

あの時、私が必死になって東京の下町で働き口を探し、中華料理屋あたりで住み込みで働き始めていたら、もしくは港湾施設にでも入り込んでいたら、そういう世界で生きている人には悪いけれど、一生浮かび上がることはできなかったと思う。「苦役列車」から、小説家になるという要素を差し引いた人生だったかもしれない。

非行とは無縁の私の失踪に両親はずいぶん心配しただろうが、帰った私に父は、「次、こういうことをするなら前もって知らせるんだぞ」と、多少不機嫌な表情で言っただけだった。後日、母が私に教えてくれたのだが、父は心配して、学校に行き私の担任に相談した。担任は、なにか考えがあっての家出だろうし、頭から叱ってはひねくれた性格を一段とこじらせてしまうかもしれないから、あまり強く言わないほうがいいと父にアドバイスしたらしい。

私がどこかで自殺する気なのではないかと心配した父親に、担任はこう質問した。

「息子さんの部屋は、片付いていますか?」

「いえ、いつも通り散らかったままです」

母によれば、担任は「では大丈夫です」と太鼓判を押したという。自殺するなら、家を出る前に自分の部屋をきれいに片付けるはずだと、担任は確信していた。

しかし、部屋をちらかしたままで死ぬタイプの人間もいる。私がそうだ。

同窓会の案内状はその担任にも送られた。三十年ぶりに再会できたら、N先生にははっきりと言いたい。

「私はあの時、自殺しようなんて全然考えてなかったし、いまもその気はないですけれど、もしその気になったとしても、部屋や机の上を片付けようなんて全然思いませんよ」

五十

高校の同窓会のスタッフに加わった。運営に参加する義務はなく、母校への思いも薄いのだが、10年ほど前に私たちが高校のあるこのまちでの同窓会の当番期だった年、帰郷から間もなかった私は同窓生たちとの人脈が皆無だったため参加しなかった。その後、同窓生を通じて幅広く仕事をもらったので、ささやかながら恩返しがしたいと思って手を挙げたのである。

しかし、今年の同窓会は県庁所在地の都市で開かれる。私がいま住んでいる母校の所在地よりも、県庁所在地のほうが羽振りのいい医師、弁護士、実業家、地方官僚などの卒業生が多いので、向こうの同窓会のほうが豪勢だ。昨年の秋、最初の準備委員会に私も顔を出したが、まあおまえははるばるやってくるのも大変だろうということで、WEBページの制作という閑職を割り振られ、15年前に蓄えた知識とテキストエディタを使って、与えられた仕事をつつがなくこなした。

同窓会の仕事を割り振りしているうちに、高校時代の私の(というよりも学年の男子全員にとっての)マドンナが、Kという私の面識のない同級生に嫁いだことを知った。同級生と結婚したことは知っていたが、その姓を知らなかった。マドンナといってもすでに50に近いわけだが、6月初旬の同窓会には出席しないらしい。残念であると同時に、安心もした。卒業後32年間という時の流れを考えれば、あの人が老人ホームに入った天地真理をちょっと若作りにした外観になっている可能性だってないわけじゃない。一方、私は中年ぶとり、顔の皮膚もたるみっぱなしという厳然たる事実があるが、向こうが私のことなど忘れているだろうから、私には引け目などない。

高校時代、私にはまぶしい存在がもうひとりいた。こちらは男である。スポーツ万能、頭が良く、性格は快活で人気者、文化系の部活の全国大会で大活躍し、その後国立大学の医学部に入った。そう。イケメンでもある。こういう輝かしい人間と(その正反対のワル)と私は縁遠い存在なので、あまり接点もないはずなのだが、この男がなぜか盛んに私にちょっかいを出してきた。どう対応すればいいのかまったくわからず、ほぼ無視したら、そのうち相手にしてもらえなくなり、内心後悔した。

その男も私と同様、50歳近くになったわけだが、同窓会の運営組織から割り当てられた仕事が医師の業務と関係なく、経験に乏しいために難儀していると聞いた。私はメールで「そういうのは仕事でよくやっていることなので、手に負えないと思ったらすぐ連絡を」と呼びかけた。向こうからはたぶん頼むことになるという返事が届いた。

この男と直接会う機会があるのかどうかわからないが、もしも相変わらずのイケメン、快活だったら、私は50近くになった今もどうしていいかわからず、冷たい態度しかとれないので、どうか人並みに小汚い中年男になっていてほしいと願っている。

型録

中古品屋に行ったら、カー用品売場の片隅に、自動車カタログが並んでいた。最近の車種と並んで、オースター、ギャランΣなど昭和のモデルのカタログもある。値段は安いもので400円、高いもので1000円くらい。これらのカタログはガラスケースのなかに入ってはおらず、どれも手にとって立ち読みできたから、それほどレアなものではないのだろう。

子どものころ、カタログが大好きだった。これは父譲りの性向で、父は定期的にソニー系の家電卸売会社に行って業務用の新書版くらいの総合カタログをもらってきていた。私がカタログに出ているブラウン管のテレビ、コンポのアンプやカセットデッキ、ラジカセ、BCL用の短波ラジオの写真や説明文、スペックを見ながらうっとりしていたのは、その商品を手に入れた感覚だけでなく、その商品を手に入れられる生活水準を享受している大人の自分を想像していたからだと思う。ソニー商品のほか、クラウンのカタログも穴が空くほど読んだのを覚えている。結局、父は角張った4ドアのセダンか、やや流線型を帯びた4ドアのクーペを買ったのだが、私は当時クラウンに設定されていた青い2ドアのモデルが大写しになったページを開いては溜息をついていた。

兄は私や父以上のカタログ好きで、当時はこのまちの中心部にあった家電販売店に自転車で通って、ソニー製品を中心にせっせとカタログを収集していた。透明なポケット式のファイルに入れたコレクションの厚さは20センチくらいに達したと記憶している。

あれから40年。私はソニーのアンプもテレビもカセットデッキも持っていない。理由は3つある。まず、私の経済力は昭和期の父をはるかに下回っており、毎月数十万単位の金を家電製品やオーディオ機器に投じる財力がない。第二に、ソニー製品がかつてのようなカッコ良さを失ってしまった。第三に、いまはカセットデッキもアンプも短波ラジオも必要ない。かなりの機能をスマホで代用できてしまう。

もう一つ、別の理由がある。経済力が乏しいとはいえ、私もこれまでいろんなモノを購入してきたが、購入直前の心の高揚が続いたことは一度だってない。手に入れて、箱から商品を出して、電源を入れた瞬間、興奮が覚めていくのがわかる。たとえばこの1月に3万円で買ったパソコンには、3万円分の価値は充分にあるとは思うが、私の心のときめきは3万円分では済まず、4万円、5万円分まで膨らんでいた。ぼんやりと想像していた商品を実際に手にとり、指先や目で質感を確かめることで、「ああ、こんなものだったのか」との失望感が生じるのをどうすることもできないのだ。

だから、もう店からカタログは持って帰らない。掲載されている商品をウン万円で購入したところで、高揚感が覚めていくのは確実だからだ。ケータイを買う際など、複数のモデルを比較して選択しなければならないときには、店員から手渡された厚いカタログを持ち帰ることもあるが、ほとんど開かない。

現行商品、これから世に出る商品のカタログさえ興味がないのだから、昭和のクルマのカタログにお金を払う理由が理解できなかった。しかし、よく考えてみれば、これらのカタログを購入したいとの欲求の裏には、クルマが欲しいという「本体」の欲求がない。欲しくてもとうの昔に生産中止となり、いまや中古車さえほとんど市場に出回っていない。しかし、紹介されている商品ではなく、紹介しているカタログを買うだけなら、がっかり感の生じる余地はないわけだ。

当たり前の話だが、カタログは肯定的な文言であふれている。商品をさんざん持ち上げるだけでなく、その商品を購入すればこんなに幸せになれますよというライフスタイルも描いてくれる。クルマのカタログに美男美女が載っているのがその一例だ。

平成の日本に生きる私たちは、そんな生活が、少なくとも庶民の周囲には存在しないことを知っている。しかも、この先の日本はもっとひどい状況になりそうだ。昭和のカタログを購入する人は、この時代の重苦しい空気から逃れ、あの時代の「今は苦しくても将来はもっと楽しい世の中になっているはずだ」という楽観的な空気を吸っているのかもしれない。

黒人

これといった目的もないまま、週末の午後、札幌市内を歩いていたら、ライブハウスの壁にジャズライブのポスターが貼ってあった。中央には黒人のトロンボーン奏者。この人はアメリカのビッグバンドのメンバーで、今回は来日して日本人のビッグバンドと共演するということらしい。開演時間は16時半。周囲を少し散歩してから戻ってくればちょうどいい時間ではある。

「どうする?」と嫁が私に尋ねた。この質問には、「ライブハウスに入る気があるのかどうか」という意味とともに「お前にはその度胸があるのかどうか」という意味が含まれている。

仕事を除けば、ライブハウスに行ったことは一度もない。私は柔道や空手、剣道の道場の敷居を跨いだこともない。私にとってライブハウスに足を踏み入れるのは、道場破りと同じくらいのレアな行為で、同じくらい度胸がいる行為なのだ。

しかもジャズ。歌謡曲でも、ロックでも、J-POPでもなく、ジャズ。私のイメージの中では、通、または通を気取る客が、たばこをくゆらせ、(違いはわからないが)ウイスキーやバーボンのグラスを傾けながら、身体でリズムを取りながら聞くのがライブハウスで演奏されるジャズだ。素人の私たち夫婦は身体の揺らせ方がぎこちないために、周囲に「こいつら素人だぞ」「いい度胸してやがる」というささやきが広がっていくに違いないのだ。

それでも、妻の問いに「入らない」と答える選択肢はなかった。1年か2年前のことだと思うが、同様に札幌のジャズのライブハウスに入るかどうか問われて、私が帰ろうと言ってから3週間ほど、妻の機嫌がすこぶる悪かったからだ。

あたりをしばらく散歩してから、開演の20分ほど前、地下につながる階段を降りてライブハウスに入った。それほど大きくない会場の奥のほうで、約10人の奏者が、黒人のトロンボーン奏者を中心にリハーサルをしていた。私には、「ほう、これが谷啓の吹いていた楽器か」程度の認識しかない。

ところが、状況が私の想像していたジャズのライブとは大きく異なっていた。まず、客の年齢層が高い。夫婦と思われる男女の比率が高い。身なりもきちんとしている。私が予測していた退廃的なものが何もない。「ジャズっぽいもの」が何なのか定義はできないが、明らかにジャズっぽくないのだ。どちらかといえば、ベテラン教師の研修会のあとの懇親会が始まる直前といった雰囲気だった。

そして、バンドのメンバーの中に、この人は大学生か、大学卒業直後なのではないかと思われる人が何人かいた。ということは、客のうちかなりの比率は、バンドのメンバーの親御さんなのではないか。私が恐れていたディープで排他的なジャズライブではなく、お子さま音楽教室発表会の上級者版なのではないか。

客が席につくやいなや、周囲の人とあいさつや談笑を交わしていることも、この集団の一体感を高めていた。私たちは、当初予想したのとは違う方向で、完全に場違いな空間に迷い込んでしまったのかもしれない。ライブ終了後に同じ会場ですぐに謝恩会が始まり、私が「家族代表の挨拶」をするよう指名がかかったらどうしようと不安になり、

「うちのケン坊がお世話になっております。楽器屋の店先で見つけた小さなトランペットを買ってくれとせがんだのが20年前。三日坊主で終わるかと思ったのに、これまで本人なりに懸命に練習してきたようです。先生にご指導いただいたおかげで、今日は立派な演奏をバンドメンバーのみなさんと共に聞かせてくれるはずだと、家内とともに今日が来るのを楽しみにしていました。ケン坊、本当に素晴らしかったよ(涙ぐむ)」

みたいなあいさつをでっち上げずにはいられなかった。

そうこうしているうちにライブが始まった。門外漢の私たちにとっても、3000円×2人分の価値は十分にある充実した内容だった。出演者と客の関係とか、バンドの基本的な性格とかはわからないままだが、機会があればまた聞きにきたいと思った。ただ、黒人のトロンボーン奏者の人が、トロンボーンを傍らに置いてほら貝での演奏を始めたとき、北海道名物のホタテの貝殻をカプカプさせながら乱入するだけの音楽的素養が私にないことが残念に思えた。

僧侶

犬を散歩している途中で、道路の向こう側にあるコンビニ入口横に備え付けられた緑色の公衆電話を使って、僧侶が電話をかけているのに気がついた。

公衆電話がここにあるのは知っていた。犬の散歩の途中でコンビニに入りたくなったとき、犬のリードを結えておくのに最適だからである。公衆電話を最後に使ったのかいつなのかは思い出せない。そういえば数年前の正月休み、自分の携帯を忘れて娘とともに外出したところ、娘とはぐれたので公衆電話から連絡しようとして、娘の番号を自分の頭では記憶していないことに気付き、慌てたことがあった。

他の人が公衆電話を使っていることも、まず見かけることがない。これも数年前のことだと思うが、深夜に近所の公園の横にある電話ボックスに男が入って真剣な表情で話していることがあり、携帯を使わず公衆電話に頼っているという状況だけで、これはただならぬ事態が発生しているに違いないと想像してしまった。

そして僧侶。この僧侶は携帯電話、あるいはスマホという文明の利器を僧服の懐に入れるのをあえて拒否しているのではないか。携帯電話やスマホから、現代情報社会に反乱する猥雑な情報を取り入れることは、すなわち仏の道にそむくことに他ならないと断じたのではないか。近年の仏教寺院といえば、葬式業者の一部であり、生き方に迷った信徒を正しい方向に導くという宗教本来の役割を果たしていないようにも思えるが、案外、身近なところに仏教本来の姿を見失わない清貧かつ真摯な宗教家がいるのかもしれない、と想像を膨らませていたら、その僧侶はコンビニ駐車場に停めてあった高級セダンに近づいた。運転席に乗っていた男が慌てて降りてドアを開けると、僧侶は悠然と乗り込んだ。携帯電話は持っていないが、運転手付きの高級車は持っている僧侶だった。

公衆電話を使ったのは、単に、昨夜遅くまでネットゲームにはまってバッテリーが切れ、そのまま眠って今朝になって充電を忘れていたのに気が付いたからなのかもしれないと、私の想像力は逆方向に向けて動き出した。

異臭

50歳近くにもなると、常に自分の体から悪臭が漂っていないかどうか、気にしていなければならない。昔は時間がないときなど、朝風呂を省略して出勤したこともあるが、いまは恐くてとてもできない。

周囲に体臭の濃い人がいたら、どうするか。「お前、臭いな」と言える人は、かなりの度胸の持ち主である。私は、言葉を選びつつ同僚に同じようなことを言ったことがあるが、今になって「おれも臭ってるときがあるんだろうな。あいつはそれを指摘せずに嗤っているんだろうな」という恐怖にさいなまれている。

自らの体臭への恐怖は、指摘されないことで増幅する。臭かったら臭いと言える社会なら、臭いと指摘されるまでは臭くないから安心できるのだ。体臭を指摘しない社会で、「臭い」と言われない状態は、額面通り臭くないことを意味しているのかもしれないし、臭いことを意味しているのかもしれない。だから恐ろしい。

過去数年を振り返ってみると、もっとも強烈な悪臭を漂わせていた人はOさんである。Oさんは私より何歳か年上で、当時とある団体の番頭的なポジションにあった。それまでも何度かOさんとは会い、打ち合わせをしたこともあった。

ある会合に出席したところ、ステージに近い円卓で私の右側に座ったのがOさんだった。いつものように雑談を始めると、Oさんの側から強烈な腐敗臭が漂ってきた。肉とか魚とか、生体が腐っている臭いだが、生ゴミとは違う異臭だった。

一瞬、これは私の体が発しているのかと思い、恐くなった。私の左側には、大手企業の支社長が座っていたので、ひょっとしたら支社長側から流れてきた臭いなのかなとも考えた。しかし、表情をできるだけ変えないようにクンクンしてみると、かなりの確率で、臭いはOさん側から漂ってきていた。私は他人様の悪臭を指摘するのはタブーとする社会規範に縛られて生きているので、これは何の臭いなのだろうと想像力を働かせながら、平然を装って雑談を続けた。

途中でOさんが「他に用事がある」として退席した。とたんに臭いが消え、かすかに残っていた私が悪臭源である可能性もなくなった。残った支社長に「いまものすごく臭くなかったですか」と尋ねるのをなんとか我慢した。

臭いは人間の記憶力に深く根を下ろしているというが、数年前のこの話を今も覚えているのは、それとは関係がない。たしか異臭を嗅いでから数カ月後だと思うが、Oさんがクビになった。勤務先の公金を使い込んでいたのがバレたのである。数年前から遊興費のために団体の口座から引き出しつづけ、監査の直前に借金して穴埋め、監査が終わると公金をまた引き出して借金を返すという綱渡りを続けていたが、最後には穴埋めができなくなった。親戚が借金を肩代わりしてくれたので刑事告発は免れたが、懲戒免職となり、役員らも全員交代する騒ぎとなった。

私の頭のなかでは、Oさんの異臭と使い込みがつながっている。私の描いたストーリーはこうだ。いままで何年か、綱渡りを続けてきたが、どうも年末には首が回らなくなりそうだ。どうせバレるのなら最後にパッと遊びに行こう。そう決意したOさんは、普通の神経の持ち主なら眉をひそめるタイプの風俗店のドアを押し開けた。普通の風俗店は、すでに団体の公金を費やして通い詰めて飽きてしまったからだ。店内でOさんは欲望を爆発させ、気が付かないうちに異臭を身にまとって会合の会場にやってきた……。クビになったあとのOさんとは一度も会ってはいないので、以上は純粋な想像でしかないが。

支社長もその後転勤してしまったので会う機会はないが、Oさんの横領はこの田舎町では大きな騒ぎだったので、一連の経緯は知っていると思う。どこかで会ったら支社長に尋ねてみたい。

「そういえば、あの人、なんだかクサイと思いませんでしたか?」