五十

高校の同窓会のスタッフに加わった。運営に参加する義務はなく、母校への思いも薄いのだが、10年ほど前に私たちが高校のあるこのまちでの同窓会の当番期だった年、帰郷から間もなかった私は同窓生たちとの人脈が皆無だったため参加しなかった。その後、同窓生を通じて幅広く仕事をもらったので、ささやかながら恩返しがしたいと思って手を挙げたのである。

しかし、今年の同窓会は県庁所在地の都市で開かれる。私がいま住んでいる母校の所在地よりも、県庁所在地のほうが羽振りのいい医師、弁護士、実業家、地方官僚などの卒業生が多いので、向こうの同窓会のほうが豪勢だ。昨年の秋、最初の準備委員会に私も顔を出したが、まあおまえははるばるやってくるのも大変だろうということで、WEBページの制作という閑職を割り振られ、15年前に蓄えた知識とテキストエディタを使って、与えられた仕事をつつがなくこなした。

同窓会の仕事を割り振りしているうちに、高校時代の私の(というよりも学年の男子全員にとっての)マドンナが、Kという私の面識のない同級生に嫁いだことを知った。同級生と結婚したことは知っていたが、その姓を知らなかった。マドンナといってもすでに50に近いわけだが、6月初旬の同窓会には出席しないらしい。残念であると同時に、安心もした。卒業後32年間という時の流れを考えれば、あの人が老人ホームに入った天地真理をちょっと若作りにした外観になっている可能性だってないわけじゃない。一方、私は中年ぶとり、顔の皮膚もたるみっぱなしという厳然たる事実があるが、向こうが私のことなど忘れているだろうから、私には引け目などない。

高校時代、私にはまぶしい存在がもうひとりいた。こちらは男である。スポーツ万能、頭が良く、性格は快活で人気者、文化系の部活の全国大会で大活躍し、その後国立大学の医学部に入った。そう。イケメンでもある。こういう輝かしい人間と(その正反対のワル)と私は縁遠い存在なので、あまり接点もないはずなのだが、この男がなぜか盛んに私にちょっかいを出してきた。どう対応すればいいのかまったくわからず、ほぼ無視したら、そのうち相手にしてもらえなくなり、内心後悔した。

その男も私と同様、50歳近くになったわけだが、同窓会の運営組織から割り当てられた仕事が医師の業務と関係なく、経験に乏しいために難儀していると聞いた。私はメールで「そういうのは仕事でよくやっていることなので、手に負えないと思ったらすぐ連絡を」と呼びかけた。向こうからはたぶん頼むことになるという返事が届いた。

この男と直接会う機会があるのかどうかわからないが、もしも相変わらずのイケメン、快活だったら、私は50近くになった今もどうしていいかわからず、冷たい態度しかとれないので、どうか人並みに小汚い中年男になっていてほしいと願っている。

型録

中古品屋に行ったら、カー用品売場の片隅に、自動車カタログが並んでいた。最近の車種と並んで、オースター、ギャランΣなど昭和のモデルのカタログもある。値段は安いもので400円、高いもので1000円くらい。これらのカタログはガラスケースのなかに入ってはおらず、どれも手にとって立ち読みできたから、それほどレアなものではないのだろう。

子どものころ、カタログが大好きだった。これは父譲りの性向で、父は定期的にソニー系の家電卸売会社に行って業務用の新書版くらいの総合カタログをもらってきていた。私がカタログに出ているブラウン管のテレビ、コンポのアンプやカセットデッキ、ラジカセ、BCL用の短波ラジオの写真や説明文、スペックを見ながらうっとりしていたのは、その商品を手に入れた感覚だけでなく、その商品を手に入れられる生活水準を享受している大人の自分を想像していたからだと思う。ソニー商品のほか、クラウンのカタログも穴が空くほど読んだのを覚えている。結局、父は角張った4ドアのセダンか、やや流線型を帯びた4ドアのクーペを買ったのだが、私は当時クラウンに設定されていた青い2ドアのモデルが大写しになったページを開いては溜息をついていた。

兄は私や父以上のカタログ好きで、当時はこのまちの中心部にあった家電販売店に自転車で通って、ソニー製品を中心にせっせとカタログを収集していた。透明なポケット式のファイルに入れたコレクションの厚さは20センチくらいに達したと記憶している。

あれから40年。私はソニーのアンプもテレビもカセットデッキも持っていない。理由は3つある。まず、私の経済力は昭和期の父をはるかに下回っており、毎月数十万単位の金を家電製品やオーディオ機器に投じる財力がない。第二に、ソニー製品がかつてのようなカッコ良さを失ってしまった。第三に、いまはカセットデッキもアンプも短波ラジオも必要ない。かなりの機能をスマホで代用できてしまう。

もう一つ、別の理由がある。経済力が乏しいとはいえ、私もこれまでいろんなモノを購入してきたが、購入直前の心の高揚が続いたことは一度だってない。手に入れて、箱から商品を出して、電源を入れた瞬間、興奮が覚めていくのがわかる。たとえばこの1月に3万円で買ったパソコンには、3万円分の価値は充分にあるとは思うが、私の心のときめきは3万円分では済まず、4万円、5万円分まで膨らんでいた。ぼんやりと想像していた商品を実際に手にとり、指先や目で質感を確かめることで、「ああ、こんなものだったのか」との失望感が生じるのをどうすることもできないのだ。

だから、もう店からカタログは持って帰らない。掲載されている商品をウン万円で購入したところで、高揚感が覚めていくのは確実だからだ。ケータイを買う際など、複数のモデルを比較して選択しなければならないときには、店員から手渡された厚いカタログを持ち帰ることもあるが、ほとんど開かない。

現行商品、これから世に出る商品のカタログさえ興味がないのだから、昭和のクルマのカタログにお金を払う理由が理解できなかった。しかし、よく考えてみれば、これらのカタログを購入したいとの欲求の裏には、クルマが欲しいという「本体」の欲求がない。欲しくてもとうの昔に生産中止となり、いまや中古車さえほとんど市場に出回っていない。しかし、紹介されている商品ではなく、紹介しているカタログを買うだけなら、がっかり感の生じる余地はないわけだ。

当たり前の話だが、カタログは肯定的な文言であふれている。商品をさんざん持ち上げるだけでなく、その商品を購入すればこんなに幸せになれますよというライフスタイルも描いてくれる。クルマのカタログに美男美女が載っているのがその一例だ。

平成の日本に生きる私たちは、そんな生活が、少なくとも庶民の周囲には存在しないことを知っている。しかも、この先の日本はもっとひどい状況になりそうだ。昭和のカタログを購入する人は、この時代の重苦しい空気から逃れ、あの時代の「今は苦しくても将来はもっと楽しい世の中になっているはずだ」という楽観的な空気を吸っているのかもしれない。

黒人

これといった目的もないまま、週末の午後、札幌市内を歩いていたら、ライブハウスの壁にジャズライブのポスターが貼ってあった。中央には黒人のトロンボーン奏者。この人はアメリカのビッグバンドのメンバーで、今回は来日して日本人のビッグバンドと共演するということらしい。開演時間は16時半。周囲を少し散歩してから戻ってくればちょうどいい時間ではある。

「どうする?」と嫁が私に尋ねた。この質問には、「ライブハウスに入る気があるのかどうか」という意味とともに「お前にはその度胸があるのかどうか」という意味が含まれている。

仕事を除けば、ライブハウスに行ったことは一度もない。私は柔道や空手、剣道の道場の敷居を跨いだこともない。私にとってライブハウスに足を踏み入れるのは、道場破りと同じくらいのレアな行為で、同じくらい度胸がいる行為なのだ。

しかもジャズ。歌謡曲でも、ロックでも、J-POPでもなく、ジャズ。私のイメージの中では、通、または通を気取る客が、たばこをくゆらせ、(違いはわからないが)ウイスキーやバーボンのグラスを傾けながら、身体でリズムを取りながら聞くのがライブハウスで演奏されるジャズだ。素人の私たち夫婦は身体の揺らせ方がぎこちないために、周囲に「こいつら素人だぞ」「いい度胸してやがる」というささやきが広がっていくに違いないのだ。

それでも、妻の問いに「入らない」と答える選択肢はなかった。1年か2年前のことだと思うが、同様に札幌のジャズのライブハウスに入るかどうか問われて、私が帰ろうと言ってから3週間ほど、妻の機嫌がすこぶる悪かったからだ。

あたりをしばらく散歩してから、開演の20分ほど前、地下につながる階段を降りてライブハウスに入った。それほど大きくない会場の奥のほうで、約10人の奏者が、黒人のトロンボーン奏者を中心にリハーサルをしていた。私には、「ほう、これが谷啓の吹いていた楽器か」程度の認識しかない。

ところが、状況が私の想像していたジャズのライブとは大きく異なっていた。まず、客の年齢層が高い。夫婦と思われる男女の比率が高い。身なりもきちんとしている。私が予測していた退廃的なものが何もない。「ジャズっぽいもの」が何なのか定義はできないが、明らかにジャズっぽくないのだ。どちらかといえば、ベテラン教師の研修会のあとの懇親会が始まる直前といった雰囲気だった。

そして、バンドのメンバーの中に、この人は大学生か、大学卒業直後なのではないかと思われる人が何人かいた。ということは、客のうちかなりの比率は、バンドのメンバーの親御さんなのではないか。私が恐れていたディープで排他的なジャズライブではなく、お子さま音楽教室発表会の上級者版なのではないか。

客が席につくやいなや、周囲の人とあいさつや談笑を交わしていることも、この集団の一体感を高めていた。私たちは、当初予想したのとは違う方向で、完全に場違いな空間に迷い込んでしまったのかもしれない。ライブ終了後に同じ会場ですぐに謝恩会が始まり、私が「家族代表の挨拶」をするよう指名がかかったらどうしようと不安になり、

「うちのケン坊がお世話になっております。楽器屋の店先で見つけた小さなトランペットを買ってくれとせがんだのが20年前。三日坊主で終わるかと思ったのに、これまで本人なりに懸命に練習してきたようです。先生にご指導いただいたおかげで、今日は立派な演奏をバンドメンバーのみなさんと共に聞かせてくれるはずだと、家内とともに今日が来るのを楽しみにしていました。ケン坊、本当に素晴らしかったよ(涙ぐむ)」

みたいなあいさつをでっち上げずにはいられなかった。

そうこうしているうちにライブが始まった。門外漢の私たちにとっても、3000円×2人分の価値は十分にある充実した内容だった。出演者と客の関係とか、バンドの基本的な性格とかはわからないままだが、機会があればまた聞きにきたいと思った。ただ、黒人のトロンボーン奏者の人が、トロンボーンを傍らに置いてほら貝での演奏を始めたとき、北海道名物のホタテの貝殻をカプカプさせながら乱入するだけの音楽的素養が私にないことが残念に思えた。

僧侶

犬を散歩している途中で、道路の向こう側にあるコンビニ入口横に備え付けられた緑色の公衆電話を使って、僧侶が電話をかけているのに気がついた。

公衆電話がここにあるのは知っていた。犬の散歩の途中でコンビニに入りたくなったとき、犬のリードを結えておくのに最適だからである。公衆電話を最後に使ったのかいつなのかは思い出せない。そういえば数年前の正月休み、自分の携帯を忘れて娘とともに外出したところ、娘とはぐれたので公衆電話から連絡しようとして、娘の番号を自分の頭では記憶していないことに気付き、慌てたことがあった。

他の人が公衆電話を使っていることも、まず見かけることがない。これも数年前のことだと思うが、深夜に近所の公園の横にある電話ボックスに男が入って真剣な表情で話していることがあり、携帯を使わず公衆電話に頼っているという状況だけで、これはただならぬ事態が発生しているに違いないと想像してしまった。

そして僧侶。この僧侶は携帯電話、あるいはスマホという文明の利器を僧服の懐に入れるのをあえて拒否しているのではないか。携帯電話やスマホから、現代情報社会に反乱する猥雑な情報を取り入れることは、すなわち仏の道にそむくことに他ならないと断じたのではないか。近年の仏教寺院といえば、葬式業者の一部であり、生き方に迷った信徒を正しい方向に導くという宗教本来の役割を果たしていないようにも思えるが、案外、身近なところに仏教本来の姿を見失わない清貧かつ真摯な宗教家がいるのかもしれない、と想像を膨らませていたら、その僧侶はコンビニ駐車場に停めてあった高級セダンに近づいた。運転席に乗っていた男が慌てて降りてドアを開けると、僧侶は悠然と乗り込んだ。携帯電話は持っていないが、運転手付きの高級車は持っている僧侶だった。

公衆電話を使ったのは、単に、昨夜遅くまでネットゲームにはまってバッテリーが切れ、そのまま眠って今朝になって充電を忘れていたのに気が付いたからなのかもしれないと、私の想像力は逆方向に向けて動き出した。

異臭

50歳近くにもなると、常に自分の体から悪臭が漂っていないかどうか、気にしていなければならない。昔は時間がないときなど、朝風呂を省略して出勤したこともあるが、いまは恐くてとてもできない。

周囲に体臭の濃い人がいたら、どうするか。「お前、臭いな」と言える人は、かなりの度胸の持ち主である。私は、言葉を選びつつ同僚に同じようなことを言ったことがあるが、今になって「おれも臭ってるときがあるんだろうな。あいつはそれを指摘せずに嗤っているんだろうな」という恐怖にさいなまれている。

自らの体臭への恐怖は、指摘されないことで増幅する。臭かったら臭いと言える社会なら、臭いと指摘されるまでは臭くないから安心できるのだ。体臭を指摘しない社会で、「臭い」と言われない状態は、額面通り臭くないことを意味しているのかもしれないし、臭いことを意味しているのかもしれない。だから恐ろしい。

過去数年を振り返ってみると、もっとも強烈な悪臭を漂わせていた人はOさんである。Oさんは私より何歳か年上で、当時とある団体の番頭的なポジションにあった。それまでも何度かOさんとは会い、打ち合わせをしたこともあった。

ある会合に出席したところ、ステージに近い円卓で私の右側に座ったのがOさんだった。いつものように雑談を始めると、Oさんの側から強烈な腐敗臭が漂ってきた。肉とか魚とか、生体が腐っている臭いだが、生ゴミとは違う異臭だった。

一瞬、これは私の体が発しているのかと思い、恐くなった。私の左側には、大手企業の支社長が座っていたので、ひょっとしたら支社長側から流れてきた臭いなのかなとも考えた。しかし、表情をできるだけ変えないようにクンクンしてみると、かなりの確率で、臭いはOさん側から漂ってきていた。私は他人様の悪臭を指摘するのはタブーとする社会規範に縛られて生きているので、これは何の臭いなのだろうと想像力を働かせながら、平然を装って雑談を続けた。

途中でOさんが「他に用事がある」として退席した。とたんに臭いが消え、かすかに残っていた私が悪臭源である可能性もなくなった。残った支社長に「いまものすごく臭くなかったですか」と尋ねるのをなんとか我慢した。

臭いは人間の記憶力に深く根を下ろしているというが、数年前のこの話を今も覚えているのは、それとは関係がない。たしか異臭を嗅いでから数カ月後だと思うが、Oさんがクビになった。勤務先の公金を使い込んでいたのがバレたのである。数年前から遊興費のために団体の口座から引き出しつづけ、監査の直前に借金して穴埋め、監査が終わると公金をまた引き出して借金を返すという綱渡りを続けていたが、最後には穴埋めができなくなった。親戚が借金を肩代わりしてくれたので刑事告発は免れたが、懲戒免職となり、役員らも全員交代する騒ぎとなった。

私の頭のなかでは、Oさんの異臭と使い込みがつながっている。私の描いたストーリーはこうだ。いままで何年か、綱渡りを続けてきたが、どうも年末には首が回らなくなりそうだ。どうせバレるのなら最後にパッと遊びに行こう。そう決意したOさんは、普通の神経の持ち主なら眉をひそめるタイプの風俗店のドアを押し開けた。普通の風俗店は、すでに団体の公金を費やして通い詰めて飽きてしまったからだ。店内でOさんは欲望を爆発させ、気が付かないうちに異臭を身にまとって会合の会場にやってきた……。クビになったあとのOさんとは一度も会ってはいないので、以上は純粋な想像でしかないが。

支社長もその後転勤してしまったので会う機会はないが、Oさんの横領はこの田舎町では大きな騒ぎだったので、一連の経緯は知っていると思う。どこかで会ったら支社長に尋ねてみたい。

「そういえば、あの人、なんだかクサイと思いませんでしたか?」

悔悟

ラジオで昭和歌謡曲の特集を聞いていたら、幼い頃から頭の中でヘビーローテーションされ続けてきたドラマの主題歌が浮かんだ。歌のタイトルや歌手の名を知らないので、ドラマの名と主演俳優の名をYoutubeで検索してみた。

「加山雄三 高校教師」

その歌を探し当てた。記憶通りの特徴的な歌い方だったが、その声が夏木マリのものであることは全く知らなかった。

「私に指図はいらないよ いくらお行儀仕込んでも 右から左へ 通り抜け 私は自由 風のよう 誰も私を 止められない たった一度の青春を 悔いなきようにと言うけれど 春の嵐の過ぎたあと 何もしなかったと嘆くより ああ過ち悔やむほうが マシ」

Youtubeでその曲を聞きながら、小学生の頃に聞いた歌詞の一番を、50歳が目前となったいまも完全に記憶していることに驚いた。私は数年前ある団体に参加し、毎月の会合の冒頭で必ず会の歌を斉唱していたのだが、退会するまでついに歌詞を暗記することができず、口パクを続けていた。そんな私も幼い頃の記憶力は人並みだったということだ。

ドラマの内容は思い出せない。覚えているのは主演が加山雄三だということ、舞台が女子高で、かなり悪い生徒がいたということ、「飛び出せ青春」「ゆうひが丘の総理大臣」など他の学園ものが前向きだったのと対照的に、「高校教師」は生徒の一人が逮捕されるという悲劇的な終わり方だったということくらいだ。

昭和のテレビドラマについて解説している個人のホームページを今回読んで初めて知ったのだが、ドラマのなかで加山は「経営していた会社が倒産したので急きょ教壇に立つことになった未経験の教師」を演じていた。現実の世界でも加山は親戚への債務保証が原因で莫大な負債を抱えたころ。視聴者はドラマのなかに本物の加山を観ていたのである。

話を夏木マリに戻せば、上に書いた主題歌は完全に記憶していたが、2番はドラマの冒頭では省略されていたので、Youtubeで初めて聞いた。内容が1番と比べてしっくり来ないのは、作詞家が「どうせテレビじゃ流れないんだし」との理由でいいかげんに作っているからではないだろうか。AMラジオで「1番と比べて2番の歌詞が粗雑な昭和のテレビ主題歌」を特集するならぜひ聞きたい。

親切

都会暮らしと田舎暮らしの違いのひとつに、クルマ(自家用車)に乗る頻度がある。地方都市に住んでいる私に、クルマのない生活は想像もつかない。バスも走っていることは走っているのだが、乗る人が減る→採算が悪化する→バスの本数が減る→不便になる→乗る人がまた減るという悪循環に陥ってから久しく、利用者はほぼ高齢者と高校生に限られている。私もこの10年でバスに乗ったのは、クルマを会社の駐車場に置いて帰宅してしまったときと、思いつきで高速バスに乗って札幌に行ったときだけだ。

このため、たまに大都市圏に行くと電車や地下鉄に乗るのが楽しい。1時間、狭い空間に立った状態で閉じこめられているのも、数年に一度だけならわくわくする。

少し前のことになるが、夜の便で大都市の空港に到着した。電車に乗ったところ、車内は会社帰りのサラリーマンや飲み会に行く雰囲気の学生で混雑していた。私の目の前には、バングラデシュ、インド、またはスリランカから来たと思われる親子3人連れ。父親は手書きのメモと、車内の液晶掲示板を何度も見比べている。日本に来るのは初めてで、日本での滞在先についてはメモで知らされてはいるものの、日本語が読めず、かといって日本では地名の英語表記が十分でないので、妻、幼い子を連れて順調に目的地に着けるかどうか不安、という状況らしい。

ある駅に到着する寸前、車内放送で駅名が告げられるとともに父親がそわそわしはじめた。降りるかどうか迷っている。周囲には満員の日本人客がいるのだが、誰も話しかけない。駅に到着してドアが開いた。通じるかどうかわからなかったが、私は英語で”Now we are at XXX.” と現在の駅を教えてあげた。父親は妻と子の手を引っ張り、慌てて降りて行った。

若いころ、私は東京に住んでいたが、同じ状況に遭遇したら何もしなかったと思う。こうしたときには助けの手を伸ばさないのが東京の常識だ。助けを求められれば東京の人だって助けるので人間が冷たいわけではないのだが、たとえ心の中で助けたいと思っていても、困っている人から助けてくれと言われるまでは黙って見守るべきだと、昔は思っていた。

しかし、それからもう四半世紀が過ぎたので、私は「常識」から自由になった。思い切る必要もなく自然に現在いる駅の名前を、南アジアから来たお父さんに伝えることができた。公共交通機関を利用することがほとんどないので、たまたま乗り合わせた赤の他人の外国人との関係を、実際以上に親しく感じるという効果もあったのかもしれない。

翌日はそこからかなり離れたところで、週末の早朝のそれほど混んでいない電車から、90歳くらいの車いすに乗った老婆を、決して若いとは言えない息子らしい男が下ろそうとしている場面に遭遇した。車両とホームの間がやや開いていて、そこに前輪がはさまりそうで、スムーズに降りられなくなっている。

やはり若いころの私なら、多少の良心の呵責を感じながらも、明確に「助けてもらえませんか」という要請がなかったことを口実に、手伝わずに車両を降りてそそくさと改札へと向かったのだと思うが、地方都市に暮らす私にとってはこういう経験も非常に珍しいので、半分好奇心につき動かれて、ホーム側から車いすを持ち上げて降りるのを助けた。車いすの老婆にも、男性にも鄭重に例を言われた。

さらに翌日、満員に近い電車で座っていると、私の隣に40代と思われる男2人が腰を下ろした。いずれも、スポーツウェアに、上級者っぽいシューズ。話の内容から判断して、市民マラソン大会の会場に向かう途中らしい。

二人は、走る距離を徐々に伸ばしていくことがどんなに苦しくて、同時に楽しいかについて話していた。

「何とかいう有名な作家も趣味がマラソンなんだよな。ほら、えーと、えーと、ど忘れした」

「ノーベル賞取れそうな人ですよね」

「そう。ここまで出掛かっているんだけど」

「かみ、むら? 上村春樹だっけ」

「うーん、その上村?がエッセイかなんかで書いているんだけど…」

2人は心にもやもやを抱えながらも、あの世界的人気の作家に「上村」という仮の名前を与えることで、マラソン談義を先に進めようとしていた。私はすかさず「村上です。ムラカミハルキ」と注意しても良かったのだが、黙っているしかなかった。東京を離れて四半世紀が経過したとはいえ、電車で乗り合わせた赤の他人の会話の中の間違いに気がついたとしても、みだりに指摘してはいけないという「常識」から逃れることはできなかった。