異臭

50歳近くにもなると、常に自分の体から悪臭が漂っていないかどうか、気にしていなければならない。昔は時間がないときなど、朝風呂を省略して出勤したこともあるが、いまは恐くてとてもできない。

周囲に体臭の濃い人がいたら、どうするか。「お前、臭いな」と言える人は、かなりの度胸の持ち主である。私は、言葉を選びつつ同僚に同じようなことを言ったことがあるが、今になって「おれも臭ってるときがあるんだろうな。あいつはそれを指摘せずに嗤っているんだろうな」という恐怖にさいなまれている。

自らの体臭への恐怖は、指摘されないことで増幅する。臭かったら臭いと言える社会なら、臭いと指摘されるまでは臭くないから安心できるのだ。体臭を指摘しない社会で、「臭い」と言われない状態は、額面通り臭くないことを意味しているのかもしれないし、臭いことを意味しているのかもしれない。だから恐ろしい。

過去数年を振り返ってみると、もっとも強烈な悪臭を漂わせていた人はOさんである。Oさんは私より何歳か年上で、当時とある団体の番頭的なポジションにあった。それまでも何度かOさんとは会い、打ち合わせをしたこともあった。

ある会合に出席したところ、ステージに近い円卓で私の右側に座ったのがOさんだった。いつものように雑談を始めると、Oさんの側から強烈な腐敗臭が漂ってきた。肉とか魚とか、生体が腐っている臭いだが、生ゴミとは違う異臭だった。

一瞬、これは私の体が発しているのかと思い、恐くなった。私の左側には、大手企業の支社長が座っていたので、ひょっとしたら支社長側から流れてきた臭いなのかなとも考えた。しかし、表情をできるだけ変えないようにクンクンしてみると、かなりの確率で、臭いはOさん側から漂ってきていた。私は他人様の悪臭を指摘するのはタブーとする社会規範に縛られて生きているので、これは何の臭いなのだろうと想像力を働かせながら、平然を装って雑談を続けた。

途中でOさんが「他に用事がある」として退席した。とたんに臭いが消え、かすかに残っていた私が悪臭源である可能性もなくなった。残った支社長に「いまものすごく臭くなかったですか」と尋ねるのをなんとか我慢した。

臭いは人間の記憶力に深く根を下ろしているというが、数年前のこの話を今も覚えているのは、それとは関係がない。たしか異臭を嗅いでから数カ月後だと思うが、Oさんがクビになった。勤務先の公金を使い込んでいたのがバレたのである。数年前から遊興費のために団体の口座から引き出しつづけ、監査の直前に借金して穴埋め、監査が終わると公金をまた引き出して借金を返すという綱渡りを続けていたが、最後には穴埋めができなくなった。親戚が借金を肩代わりしてくれたので刑事告発は免れたが、懲戒免職となり、役員らも全員交代する騒ぎとなった。

私の頭のなかでは、Oさんの異臭と使い込みがつながっている。私の描いたストーリーはこうだ。いままで何年か、綱渡りを続けてきたが、どうも年末には首が回らなくなりそうだ。どうせバレるのなら最後にパッと遊びに行こう。そう決意したOさんは、普通の神経の持ち主なら眉をひそめるタイプの風俗店のドアを押し開けた。普通の風俗店は、すでに団体の公金を費やして通い詰めて飽きてしまったからだ。店内でOさんは欲望を爆発させ、気が付かないうちに異臭を身にまとって会合の会場にやってきた……。クビになったあとのOさんとは一度も会ってはいないので、以上は純粋な想像でしかないが。

支社長もその後転勤してしまったので会う機会はないが、Oさんの横領はこの田舎町では大きな騒ぎだったので、一連の経緯は知っていると思う。どこかで会ったら支社長に尋ねてみたい。

「そういえば、あの人、なんだかクサイと思いませんでしたか?」

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