親切

都会暮らしと田舎暮らしの違いのひとつに、クルマ(自家用車)に乗る頻度がある。地方都市に住んでいる私に、クルマのない生活は想像もつかない。バスも走っていることは走っているのだが、乗る人が減る→採算が悪化する→バスの本数が減る→不便になる→乗る人がまた減るという悪循環に陥ってから久しく、利用者はほぼ高齢者と高校生に限られている。私もこの10年でバスに乗ったのは、クルマを会社の駐車場に置いて帰宅してしまったときと、思いつきで高速バスに乗って札幌に行ったときだけだ。

このため、たまに大都市圏に行くと電車や地下鉄に乗るのが楽しい。1時間、狭い空間に立った状態で閉じこめられているのも、数年に一度だけならわくわくする。

少し前のことになるが、夜の便で大都市の空港に到着した。電車に乗ったところ、車内は会社帰りのサラリーマンや飲み会に行く雰囲気の学生で混雑していた。私の目の前には、バングラデシュ、インド、またはスリランカから来たと思われる親子3人連れ。父親は手書きのメモと、車内の液晶掲示板を何度も見比べている。日本に来るのは初めてで、日本での滞在先についてはメモで知らされてはいるものの、日本語が読めず、かといって日本では地名の英語表記が十分でないので、妻、幼い子を連れて順調に目的地に着けるかどうか不安、という状況らしい。

ある駅に到着する寸前、車内放送で駅名が告げられるとともに父親がそわそわしはじめた。降りるかどうか迷っている。周囲には満員の日本人客がいるのだが、誰も話しかけない。駅に到着してドアが開いた。通じるかどうかわからなかったが、私は英語で”Now we are at XXX.” と現在の駅を教えてあげた。父親は妻と子の手を引っ張り、慌てて降りて行った。

若いころ、私は東京に住んでいたが、同じ状況に遭遇したら何もしなかったと思う。こうしたときには助けの手を伸ばさないのが東京の常識だ。助けを求められれば東京の人だって助けるので人間が冷たいわけではないのだが、たとえ心の中で助けたいと思っていても、困っている人から助けてくれと言われるまでは黙って見守るべきだと、昔は思っていた。

しかし、それからもう四半世紀が過ぎたので、私は「常識」から自由になった。思い切る必要もなく自然に現在いる駅の名前を、南アジアから来たお父さんに伝えることができた。公共交通機関を利用することがほとんどないので、たまたま乗り合わせた赤の他人の外国人との関係を、実際以上に親しく感じるという効果もあったのかもしれない。

翌日はそこからかなり離れたところで、週末の早朝のそれほど混んでいない電車から、90歳くらいの車いすに乗った老婆を、決して若いとは言えない息子らしい男が下ろそうとしている場面に遭遇した。車両とホームの間がやや開いていて、そこに前輪がはさまりそうで、スムーズに降りられなくなっている。

やはり若いころの私なら、多少の良心の呵責を感じながらも、明確に「助けてもらえませんか」という要請がなかったことを口実に、手伝わずに車両を降りてそそくさと改札へと向かったのだと思うが、地方都市に暮らす私にとってはこういう経験も非常に珍しいので、半分好奇心につき動かれて、ホーム側から車いすを持ち上げて降りるのを助けた。車いすの老婆にも、男性にも鄭重に例を言われた。

さらに翌日、満員に近い電車で座っていると、私の隣に40代と思われる男2人が腰を下ろした。いずれも、スポーツウェアに、上級者っぽいシューズ。話の内容から判断して、市民マラソン大会の会場に向かう途中らしい。

二人は、走る距離を徐々に伸ばしていくことがどんなに苦しくて、同時に楽しいかについて話していた。

「何とかいう有名な作家も趣味がマラソンなんだよな。ほら、えーと、えーと、ど忘れした」

「ノーベル賞取れそうな人ですよね」

「そう。ここまで出掛かっているんだけど」

「かみ、むら? 上村春樹だっけ」

「うーん、その上村?がエッセイかなんかで書いているんだけど…」

2人は心にもやもやを抱えながらも、あの世界的人気の作家に「上村」という仮の名前を与えることで、マラソン談義を先に進めようとしていた。私はすかさず「村上です。ムラカミハルキ」と注意しても良かったのだが、黙っているしかなかった。東京を離れて四半世紀が経過したとはいえ、電車で乗り合わせた赤の他人の会話の中の間違いに気がついたとしても、みだりに指摘してはいけないという「常識」から逃れることはできなかった。

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