待針

記憶の一種に、ネット上の地図に打ち込む待ち針のような形態のものがある。記憶とも呼べないような一種の感覚だ。たとえば、

「こないだ焼きそば食べた店がおいしくて、広東風なんだけど麺の細さが絶妙で、そうそう。駅の北口にある店。なに、北口の居酒屋閉めたの? あのおやじ面白い顔してたよな。関口宏と石破茂を足して2で割ったような」

まで話して、頭に浮かんでくる「さっき話が分岐して、当初の想定(広東焼きそばの魅力)と違う方向(おやじの面白い顔)に進んだ。分岐点に待ち針を刺してあるので、そろそろ戻らなければ」という感覚である。当初、どういう話をするつもりだったのか思い出せるときにはスムーズに戻れるし、待ち針の記憶だけが残って話を進めるはずだった方向を忘れてしまうと、「あれ、これが話したいんじゃなかった。なに話すつもりだったっけ?」と頭を抱えることになる。

これは会話に限ったことではない。会社に2つの部屋があって、うちひとつでパソコンを操作している。文書印刷のコマンドを実行して、もう一つの部屋にあるプリンタのところまで取りに行く。途中で同僚に呼び止められる。「先月の売り上げの報告書で不明な箇所がある」。あれこれ説明し、納得してもらったところで、プリンタに待ち針が刺してあるのを思い出す。待ち針の正確な場所が思い出せなくても、「あれ、なんかやりかけてたぞ」という感覚が、やりかけの仕事がないか確かめるよう促す。

問題は、待ち針が2本以上刺されたときだ。前述の状況で同僚に先月の売り上げの報告書について説明していたら携帯が鳴り、出てみると顧客。見積りについての質問なので、内容をパソコンでチェックしながら丁寧に説明する。この時点で脳には「なんかやりかけてるぞ」針が刺されているが、それは直前のやりかけ仕事、つまり先月の売り上げ報告書について同僚に説明することを指している。その1本前の待ち針までは思い出せないので、文書は夕方までプリンタ周辺に置きっぱなしとなる。

記憶力全体が弱いので、私はこの待ち針型記憶も弱い。やりかけたまま忘れてしまった仕事がいくつか重なっていることがある。

最近、その対象によって待ち針型記憶の強さが異なることに気が付いた。仕事中、外出先からの帰りにコンビニで食べ物を買った。食べようとしたら同僚に先月の売り上げの報告書について聞かれた。だが、私の頭の中にはしっかりとおやつ、たとえば堅焼きせんべいのイメージが残っている。「なにかやりかけたことがある」ではなく、「堅焼きせんべいをまだ食べていない」という具体的な記憶が残っているので、待ち針が必要ない。実際、しばらく忘れていた堅焼きせんべいの存在を思い出して喜んだ、という記憶が私にはほとんどないのだ。

これと真逆の位置に、熱い飲み物が位置していることにも気が付いた。コーヒーを煎れる。インスタントでも豆を挽いて煎れるコーヒーでも、私はその過程が好きなのだが、熱くて飲めないのでパソコンの傍らにカップを置いて、キーボードをたたき始めた瞬間に、コーヒーの存在を忘れてしまう。パソコンでなく、読書でもテレビでも結果は同じ。コーヒーでなく、紅茶でも日本茶だとしても、気が付けばすっかり冷めていることが多い。さすがに取引相手にお茶を薦められれば口はつけるけれど、実家を訪れて母が煎れてくれるコーヒーを飲むのを忘れてしまい、帰る直前にあわててゴクゴクと飲み干すことがけっこうある。

この待ち針型記憶は、複数の仕事や作業を同時にこなさなければならない人間には不可欠なのだろうが、これがストレスの原因にもなっている。同時進行する仕事のなかには、大きくて重くて憂鬱なものもあり、100ページの書類を印刷しながら、頭のどこかに実は回収の見込みがない多額の売掛金について、経理担当者をごまかすのもそろそろ限界かなと感じなければならないからである。100ページの書類が刷り上がるまでのひと時だけでも多額の焦げ付きを忘れられるとすれば、人生はどれだけ気軽なものになるだろう。

私はコーヒーやお茶を煎れてもらった場合という限定的な局面で、痴呆が進んでいるのだろうか。それが仕事や食事にも拡大すれば、もうボケも本物である。恐ろしいが、すっかり待ち針を捨てることができるのなら、案外気楽なのかもしれない。

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