大盛

 このまちに1軒だけ、吉野家がある。こういう業界はスケールメリットが収益を大きく左右するらしいので、札幌から1軒だけのために食材を運んでこなければならない現在の状況で採算が取れるのかどうか疑問なのだが、先日、昼食をとるために行ってみると、そこそこ混んでいた。車で数分の距離に、この吉野家を挟み撃ちするかのようにすき家が2軒オープンしたときにはもうダメかと思ったが、あれくらいの混み具合なら安泰であろう。

 私は豚肉生姜焼定食を注文した。牛肉よりも豚肉のほうが好きなので仕方がない。注文のあとでメニューを見たら、消えたはずの豚丼がいつのまにか復活しており、少し後悔した。

 その直後、私の斜め後ろで「大盛りひとつ」という声がした。年齢は私と同じくらい。橫には妻らしい女性が座っている。その店が面している道は観光スポットに向かう経路でもある。観光でこのまちを訪れ、レンタカーで全道を回っているうちに、ラーメン→ジンギスカン→カニ→ラーメンのローテーションに飽きたちょうどそのころ、懐かしい看板を見つけて立ち寄ったのかもしれない。

  その男性客が「牛丼の大盛り」ではなく「大盛り」とだけ言ったということは、吉野家は牛鍋丼でも豚丼ではなく、ましてやカレーでもなければ、定食類でもなく、牛丼を食べる店だと認識していることになる。考えてみれば、私が東京で吉野家に通っていたいたころ、朝の定食類を別とすれば、メインのメニューは牛丼と牛皿だけだった。「大盛りひとつ」の客も、当時から吉野家の忠実な顧客だったのだろう。

 その店を代表するメニューを、一部を省略して注文するのは「通」に聞こえる。みなまで言わんでも、足しげく通っている客なんだから、私と店員の間で暗黙のコミュニケーションが足り立つでしょうという宣言である。情報の一部を伏せるのが「大盛りひとつ」だとすれば、すべてを伏せてしまう究極のかたちが「いつもの」である。

 私には「大盛り」とだけ注文をした経験がないが、逆の経験は毎週のようにしている。汚いが繁盛している地元資本の定食屋のちょっときれいなおねえちゃんは、私が豚の角煮定食を注文するだけで、「半ライスですね」と確認する。そのときおねえちゃんが私の顔を直視しておらず、少し目を伏せているのが気になるが、まあいい。そんなことをいつまでも気にしているような輩に豚の角煮定食はにあわない。

 さて、吉野家にはこれからも時々行くだろうが、私は一部を省略することなく、すべて明示するかたちで注文しようと思う。「大盛りひとつ」という注文に対する「牛丼の、ですか?」という切り返しに、男性客が「あ、は、はい」と少し動揺するのが聞こえてしまったからだ。

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