殺戮

「仕事から帰ってきたら、自分の家が跡形もなく消えていた。まだヨチヨチ歩きもできない幼い妹たちも、妹たちを世話していた姉たちも一緒に。そして、一家の中心であった母も。道を間違えたのかと思い、いま帰ってきた道を戻り、Uターンして再び家路をたどってみるが、場所はここに間違いない。それなのに家が跡形もなく消えている。これからどこに行こうかと考えてもみたが、行く場所などあるわけもない。家がなければ休む場所がなく、家族がいなければ外で手に入れた食料を与える相手がいない。また家を探してみるが、やはり跡形もなく家は消えていた。幼い妹たちも、姉たちも、母も……」

その日の午後、会社の前の歩道の上で不規則な曲線を描きながら飛びつづけていたハチに、「きみから全てを奪った犯人は私だ」と告げたかったが、幸か不幸かそのすべを知らない。

会社のドアの上、地上から約2.5メートルくらいのところに、いつのまにかスズメバチの巣ができていることに気がついたのは、毎日何度も出入りしている社員ではなく、近所の小学生だった。サイズは大きめのリンゴくらいで、斜め下に向かって直径2センチくらいの穴が開いている。出入りしているハチはいなかった。気づいたのが夕方で、あたりはすでに薄暗くなっていたので、中が暗くてよく見えず、スズメバチが住んでいるのか空き家なのかよくわからない。

同僚が「市役所に頼めば無料で駆除してくれるはず」というので電話してみた。

「無料駆除は住宅だけです。事業所は民間の害虫駆除業者に委託することになっていますが、駆除用の防護服は保健所で貸していますよ」

翌朝、出勤してみると、東から差し込む日光に照らされて、巣のなかで白い幼虫がモゾモゾ動いているのが見えた。世話をしている成虫の姿も見える。そのうちに成虫が穴から外に飛んでいくようになった。駆除するのは忍びないとも思っていたのだが、このあたりは高校生の通学路にもなっており、放置しておくわけにはいかない。まずは防護服を借りに行くことにする。

保健所に行くと、押入れの下の段に入れておくような透明プラスチック製の大型ケースに入った防護服セットを、職員が事務室の奥のほうから持ってきた。白いビニールカッパの上と下。上のほうはヘルメットと透明のフード、耳や後頭部を囲む網がくっついている。それから厚手の手袋2つ。一つ一つ私に見せたあとで、係員は誓約書の文言を読み上げた。

「『私は自らハチの巣の撤去のためにケガをしたり、死亡した場合にも市に賠償を求めません』。 同意するならここに捺印してください」

駆除が命がけだとすれば業者に頼めばかなりの代金を請求されるはずで、防護服を借りにきて良かったと思った。

次はホームセンターで殺虫剤の購入。アリ、シロアリ、コバエ、ゴキブリなどおなじみの殺虫剤と並んで、スズメバチのイラストが描かれたスプレー式殺虫剤があった。940円。

ところが、イラストの横に「アシナガバチ専用」との標示がある。私がおぼろげに覚えているスズメバチの姿形と、どこが違うのかわからない。裏側にはこんな注意書きもあった。「この殺虫剤はアシナガバチ専用です。スズメバチは刺激すると大変危険ですので、駆除は専門業者に依頼してください」。市に提出した誓約書の文言も思い出したが、手ぶらで帰るわけにもいかず、1本購入する。

会社に戻ってから、巣の下に脚立を置き、駆除に必要になるかもしれないビニール袋、鉄の棒、ほうき、ちりとりなどを用意しておく。屋内で防護服に着替えるが、というよりもチノパンの上から防具服の下のほうを履いてみるが、サイズが小さすぎてなかなか腰まで上がらない。テレビの動物番組で以前「脂肪の厚いブタはハチに刺されても毒が体内に届かないので全然平気」と言っていたのを思い出す。

やっとのことで下を履いてから、上の方も着用して、ヘルメットをかぶった。エアコンの効いているはずの室内でも、途端に猛烈に暑くなる。熱が逃げていく場所がないのだ。炎天下でも完全防護服を着用しなければならない福島第一原発の作業員の苦労を思う。昔、宇宙からの細菌やアメーバに地球が汚染されてるようなたぐいのアメリカ製SF映画で、こういう防護服を着た人がいつのまにか巨大化したアメーバに飲み込まれたりするのを見ると、気の毒にとは思ったが、この暑さまでは想像できなかった。

手袋もはめて玄関の方に行くと、同僚の社員がデジカメを構えていた。気楽な見物ではない。この人は「ああ、俺も防護服を着てスズメバチを駆除してみたいなぁ」と悔しがる性格なのだ。私は「もしものことがあったら、妻には『犬の散歩は朝晩1回ずつ頼む』と伝えてください」とその同僚に告げて外に出た。殺虫剤を手に脚立を登った。ここからは可哀想なので書かない。

駆除は1分もしないうちに終わった。成虫のハチは3~4匹だっただろうか。どれが女王蜂なのかはわからなかった。ほかに十数匹の幼虫やさなぎがいた。地面に落とした巣をごみ袋に入れて、アスファルトの上に散らばった破片をほうきで片付けた。室内に戻って防護服を脱いだら急に涼しくなった。こういうときはビールがうまいのだろうが、私は下戸だ。デジカメで駆除の様子を撮影していた同僚も日本酒派だ。そもそも、まだ午前中だ。

ネットで調べてみたら、アシナガバチとスズメバチは親戚だが、巣の形が違う。私が駆除したのはスズメバチのほうだった。まだ巣の規模が小さかったから、私が危険を感じる場面はなかったが、数十匹の成虫がいる規模に巣が大きくなっていたら、市に提出した誓約書の内容も大げさでなくなる。駆除は専門業者に頼んだほうが安全だろう。

ミツバチがその名の通り、蜜を集めて飛び回っているのに対し、スズメバチは肉食で、ほかの虫をつかまえては殺して肉団子にして幼虫に与えている。このあたりで見かける昆虫といえばハエや蚊、日曜日や深夜のみ台所やトイレに現れるゴキブリくらいしかいないので、スズメバチが巣を作れるような数の虫がいるとすれば意外な話だ。

実は、この日はクソが2つくらいつく忙しい日で、本当ならスズメバチの駆除などやっている場合ではなかった。が、そういう日はクソ3つくらい現実逃避したくなるもの。さすがにウィキペディアやツイッターに逃げ込むわけにはいかないが、同僚や歩行者の安全に関わる問題だとすれば、正々堂々と目の前に山積している仕事を放置できる。もしも「そんな理由で、自ら手を汚して私の家族と家を奪ったのか」と生き残ったスズメバチに問われたとしても、幸い、私には「そうだ」と伝えるすべがない。

(追記 駆除前に撮影しておいた画像を思い出した。シマシマ模様は、時期によっていろいろな材料を併用した結果か?)

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